読者から作品に
寄せられたコメント

解脱!月うさぎ

読み終わった後にもう一度最初に戻ると、「解説!月うさぎ」だと思っていたものが「解脱!月うさぎ」と書いてあったことに気づき、もう一度読み直しました。それでもやっぱり言葉にして、こうゆうことか!と説明できるような言葉が思い浮かばなかったのですが、頭の中ではぼんやりこの作品の居場所があってそこでは解る気がします。
でも、結局人生で何度か思い出して、思い出すたびに月うさぎかわいいなぁという感想に行き着くんだろうなと思います。


ある部下の一日

対面を許してくれる魔王様優しい...!!
倫理観が行方不明で面白かったです!!


拉致レストラン

レストランの他のメニューも気になる


生きること能わず

サイコーです!まさお君どうやって誕生したのか気になります。


魚介類人猿先生のお話を拝読しました。
フルチン小悪魔、ストキン爺、本物のシーズーサラダ、マイクロビキニエクソシスト、プッチンプリンで勇者を苗床リサイクルする魔王軍、無垢な瞳をしたキャラクターたちの織りなす条理の箍が弾け飛んだコミカルなギャグには、奇妙な理不尽への倒錯的エロティシズムが感じられ、また、愚かで無様に映るキャラクターたちの姿は迷いながら今を生きる人間に肉薄し、そしてそれらを肯定する人間讃歌があると思いました。
背景の世界観を感じさせる作り込みに大変楽しませていただきました。
次回作も楽しみにしています。


unko

魚介類人猿先生の『unko』遅ればせながら拝見させていただきました。
うんこという普遍的で主に下品なものとしてのイメージの強い物から描き出される物語は、理不尽の連続の中で主人公が変化していく様と悠久の時を感じる構成と合わせて、取り込んだ食料が体の中で姿を変えた果ての姿であるうんこが生物の根源的なモチーフであることを改めて感じさせてくれました。
シャーマン(?)のうんこによって新たな時間が生まれ、時間が育んだ恵みをまた取り入れることで新たなうんこになり繋がっていく永い永いループが、斬新でありながらよくよく考えれば普段の私たちの生活でありふれた光景なのも面白かったです。
訳もわからず地底に埋められた主人公が悠久の時の果てに変質し、それによって何が変わるでもないままに肉塊になる姿には、言いようのない無常感と、それでもいいのだと誰かに慰撫される様な心地がしました。
先生のお話は愛らしいキャラクターたちの不条理で残酷でコミカルな描写の中に、心の柔らかいところを包み込む様な、ある種の肯定が存在しており、読む度にこんな描き方があるのだと感銘を受けます。あとお肉が美味しそうでした。
次回作も楽しみにしています。


解脱!月うさぎ

魚介類人猿先生の「解脱!月うさぎ」拝読しました。いつもの疾走感とキャラクターの魅力に楽しませていただきました。
1コマ目の「月うさぎ」たちの愛くるしい姿に絆された直後に屠殺される瞬間を目の当たりにして、一気に彼らが家畜であることを叩きつけられました。彼らが実際には人間と異なる生き物であっても、与えられた玩具で遊び、絵本を読み、言葉を理解する様な行動をとることが尚更無惨で、従業員の男が家畜と割り切れずに精神を追い詰められていく姿に見入ってしまいました
中国の伝説において、月のうさぎは薬を作っていますが、月うさぎたちの愛らしい外見や内臓を移植するために利用される姿は、尊い存在だったものが人の手によって「物」になり、消費されていく過程を軽やかなタッチで克明に描いており恐ろしくなりました。(あと、月うさぎって骨格無い感じの柔らかい生き物なんですね…)
追い詰められた男の脳裏に浮かぶ、切断された月うさぎたちが佇む地平と、これまでに殺してきた彼ら。終わりのない輪廻と、捨てきれなかった無垢への衝動。
脱出口への廊下は、小さな月うさぎにはあまりに遠く、到達できなかった彼らが見る最期の光景はとても切ないものでした。
解脱とは、「もうこれ以上生まれてくることのないこと」であり、擦り減った心が捨てれなかった苦悩を男が手放すことで、運命から解き放たれたこと、苦しみから解放されたことに胸がいっぱいになりました。(他の従業員もある意味解脱していますね。)(解脱の方法は人それぞれですね。)
無音の月面に立ち、巨大化していく月うさぎの異質さに、もしかしたらこの愛らしいうさぎにも恐ろしい一面があるのだろうかと、一瞬そんな思いが過ぎり、そう思った事実が在り方の違う生き物との距離を感じ切なくなりました。
差異がなく、個というよりは“種”としての意識が強そうな月うさぎは、初めから男を個人として認識することが無く、だから最後も振り返らなかったのではないかと思いました。
男ももしかしたら、月うさぎを通して自身の中の苦悩や罪悪感に振り回されただけだったかもしれません。しかし、たとえエゴによって行動したとしても、最期に見る光景はとても美しくて、だからもう、それで良かったのだと思いました。これ以上生まれることがないこと、苦しみから抜け出すこと、擦り切れていく心の底に残ったものを守り、手離すこと。もう手が届かないからこそ愛おしくてたまらなくて、そして満ち足りた気持ちになること。
コミカルで残酷な物語が、無音の月面世界の美しい光景と共に深く胸に刺さって、読み終わった後も未だに余韻から抜け出せません。とても面白かったです。次回作も楽しみに待っています。
(あとベルトコンベアーのコマの後ろの方にいるのフルチン悪魔ちゃんじゃないですか?あの子ってそういうアレだったんですか?!)


サンドリアン・デスワームと砂漠の亡霊

魚介類人猿先生の「サンドリアン・デスワームと砂漠の亡霊」拝読しました。
扉絵の躍動感溢れるヒャッハーくんたちの黄金期が次の見開きで終わりを迎える容赦の無いスピード感、諸行無常さが先生らしいと感じました。
日没とともに砂漠に落とされるデスワーム様の情景が印象的で、彼らの輝かしい暮らしがそこで絶え、暗い夜がやってくるのだとひしひしと感じました。
不定形の触手のようなか細い手足をうねらせUFOにバチギレする少女もとてもかわいらしく、なんかこう…ワイヤー可動式のフィギュアとか欲しいですね…。
少女の髪にデスワーム様みを感じたであろうおじさんの異様な出立ちと、外見に反して理性的な行動が微笑ましく、すぐに好きになってしまいました。
医務室の巨大な針や六席の椅子と座布団、壁に貼られたデスワーム様の絵などから、デスワーム様はヒャッハーくんたちにとても大切にされていたし、主従よりも保護者と子供達、もしくは仲間に近かったのだろうかと思います。元ネタはモンゴリアンデスワームで、砂=サンドでサンドリアンなのかな、とも思いましたが、フランス語の「サンドリヨン(シンデレラ)」も連想させ、そう考えるとなんだかデスワーム様がおとぎ話のお姫様と小人たち(小人は白雪姫ですが)にも見えました。かわいいですね。
おじさんと少女のやりとりもほっこりしました。ひとりで宇宙を旅する少女とひとりで砂漠を掘り続けるおじさんがともに過ごした時間は短くも得難いもので、だからこそ少女はおじさんに一緒に行くことを提案したんだと感じました。
個人的に、このおじさんは最初の見開きにいたヒャッハーくんたちの、両目を潰されてた子なのかな、と思いました。彼は目が見えなかったので、デスワーム様が「砂漠に落とされた」らしきことは分かってもその瞬間は見れず、ただ仲間とデスワーム様の悲鳴を聞くことしか出来なかった。その瞬間を見ていないのだからデスワーム様を諦めることも出来ず、悲鳴の記憶から「怪我をして苦しんでいるかもしれない」と、本来なら建物が砂塵に埋もれてしまう程の長い年月を砂漠で彷徨う亡霊になった。
少女からデスワーム様がもういないことをあっさり告げられたおじさんの表情は、安堵だったのかなと思いました。
かつてのまばゆい光に照らされる昼ではあらねども、長い夜が終わり、寂しくともささやかな朝が来た。だからおじさんは、亡霊は居なくなったのではないでしょうか。
亡霊の消えた砂漠に静かに風が吹いている。悠久を感じさせる地平に、これまでと同じように、何も変わらず太陽は沈んでいく。寂寥感を伴った感慨が込み上げてきて、読みながら泣いてしまいました。
最後まで根本的におじさんを理解出来なかった宇宙人の少女の無邪気さが少し寂しいような、少し救われるような、そんな余韻のある終わりでした。
次回作も楽しみにしております。


百億光年ハラキリ星遊記

魚介類人猿先生の「百億光年ハラキリ星遊記」、遅ればせながら拝読しました。
最初の「殺されそうな当人が必死に弁明しても周りは聞かずに軽いノリで処刑準備を進めていく図」が、こういう悪夢見る時あるよな…という、何とも言えない感覚を呼び覚ましてくれました(笑)。
魚介類人猿先生の描く2頭身のキャラクターはどれもとても愛らしいのですが、今回の異星人を天人と勘違いした文殊郎の立ち姿があまりにもかわいすぎる…!身振り手振りで説明する文殊郎、ご飯を食べてすやすや眠る文殊郎、快適な生活にご満悦な文殊郎…おじさんなのにデフォルメが本当に本当にかわいくて、しかし同時に「手羽先文殊郎が主張する住居」「手羽先文殊郎が自慢する生活」を模倣し、飼育・管理されていることへの何とも言い難い恐怖が存在していて、素晴らしくゾクゾクしました。
果てしない時の果てに目を覚ました文殊郎が「極楽」での生活に慣れつつ、徐々に違和感を感じ始め、その答えとして望んだ、かつての妻・お冬。天人が作り出した美しい「お冬」を前にした時、「違う」と言い切れなかったのは、永い時の果てに朧げな記憶しか残っていなかったのでしょうか。それとも、もう「オリジナルの文殊郎」ではなかったのでしょうか…。自分のせいで死なせてしまったお冬を安心させるために模造品を見せびらかし、必死に縋る文殊郎は、健気で愛らしい、愛玩動物のようだと感じました。
極楽生活の「化けの皮」が剥がれ、文殊郎が目を背けていた残酷な現実が噴出していく展開に目が離せませんでした。
何というか、文殊郎は実感のない生涯を送っていたのだろうな、と感じました。不幸な境遇を嘆きつつも、その生を自分で選んだという実感がないから豪華な城も、食事も、沢山の家臣も、模造品で取り敢えず満足してしまう。唯一最初からお冬に違和感を感じていたのは、お冬が何もかもが偽物だった文殊郎にとってかけがえのないたったひとつの「本物」だったからではないでしょうか。
序盤でハラキリを渋っていた文殊郎がお冬の死を知って腹を斬ったのも、他者の言いなりになって生きてきた文殊郎にとって唯一の心から大切に思っていた存在だったからなのかなと思いました。
ここに極楽はなく、一度だって「本物」だったことなどない空虚な文殊郎が、彼にとってたった一つの「本物」であったお冬を探して永い、永い旅に出る。
それは空虚な「多比岡国当主・手羽先文殊郎」としてではなく、「ただの手羽先文殊郎」として、本物の存在になる旅路でもあるのだな…と。
「切腹なされよ」あまりに突拍子も無く、ギャグの文脈の言葉ではありますが、読んだ時にすごいアツいな…と感じました。介錯人の勢いに終始圧倒されてしまいながらも、よく分からんがめちゃくちゃかっこいいな…という気持ちになっているのが不思議です。
最後にこの物語が「百億光年の旅の末」なのではなく、「百億光年の旅の序章」であったことが明かされるのが、とても壮大で気持ちが良かったです。あとほんとに介錯人は何なんだ…(笑)。
私は魚介類人猿先生の描く物語が好きです。いつも最初から世界は奇妙に残酷で、人は不条理に突き放されるのに、だれもが賢明ではないけれど、それぞれ懸命に生きていて、その切実さに胸を打たれるのです。
次回作も楽しみにしています。どうぞご自愛ください。


oh!茶席恐怖

魚介類人猿先生の「oh!茶席恐怖」拝読しました。
予告を見た時外交官と茶席、とのことなのでプリーの元ネタは米国初代駐日総領事のタウンゼント・ハリスかと思いましたが、まさかこんなにイカれたお話だとは思いませんでした。武士の教養、丁寧なもてなしの心、高次的コミュニケーションである茶席が、魚介類人猿先生の手に掛かると冒涜的ビフォーアフターを遂げ、イカれた国ジャポンに外交交渉に来たプリーの恐怖体験記になり、先の読めない展開で終始楽しむことができました。
「Don't drink.Run away.」のくだりが面白さと謎の格好良さがあってとても好きです。
天狗面が外交官に洗脳茶漬けを飲ませないために覚悟を決めて死地(茶会)に赴いたであろうことを考えると、涙が出てきますね。ズダ袋頭の人はよくわかりませんがジャポンって感じですね。
天井に穴が空いてる…とは思っていましたが、潜んでいた忍者がめちゃくちゃ愛らしく、…可愛すぎる!魚介類人猿先生のLINEスタンプとかグッズとかって出るご予定はないですか?
実はイカれた茶席の正体は鎖国派による洗脳のための罠だったことが判明し、鬼上司をサメ天国に突き落とし出国するオチまで含めて、疾走感のあるギャグが心地良く、最後の「その後日本が開国することはなかった」の一文も「しなくていいよ…」と思わせてしまうコミカルな狂気の描き方がとても魅力的でした。
茶席と政治の関係性を逆手に取った悪辣な洗脳方法が新鮮で、魚介類人猿先生ならではの着眼点だと感じます。外交官プリーや鎖国派の洗脳茶人(?)たち、謎の天狗面、開国派の忍者たち、様々な立場のキャラクターたちの視線が、味わい深いレイヤーを作り出していて何度でも読み返せる作品です。
次回も楽しみにしております。ご自愛ください。


COZIRA

魚介類人猿先生の「COZIRA」、大変遅ればせながら拝読しました。
某怪獣を彷彿とさせるコジラちゃんのドキュメンタリーかな?と思わせる最初のページと次ページの対比が印象的でした。夏のコントラストもですが、高架下の天井が真っ暗なのが格好良いと感じました。映画の始まりのようでワクワクしますね!
物語の主人公のモモコちゃん(とお父さん)も羽山さんも、世間から逸脱したいわゆる「へんな人」ですが、物語の中ではそこから脱して「まともな人」になるのではなく、立ち向かい、そもそもの社会常識を変えていくという流れでした。
とても面白いと感じたのが、よくある「(現実の私たちから見ると)間違った世界で、(現実の私たちから見ると)正しい考えを持った主人公」なのではなく、彼女たちは現実世界においても敬遠される電波系や陰謀論者などと言われる類の人間であることです。
特に羽山さんの電磁波の説明を聞いた時、私は「お母さんがちょっとアレな人なんだなぁ」と思いました。モモコちゃんのお父さんも娘を改造した上に「ちょっとへん」になってどこか不安になる造形になってますしね。
彼女たちは私から見ても充分に「へんな人」でしたが、「へんな人」であることを共通点に、秘密を共有して過ごす彼女たちの夏休みは、モノクロの画面から淡い夏のコントラストを感じさせて、まるで映画を観ているような心地になりました。
私たち人間は、科学的根拠や論理によって世界を捉え「解釈」することで社会常識を構築しており、そこから逸脱すれば「へんな人」として扱われます。しかし、かつて天動説から地動説へと社会の「解釈」が変わったように、日々の発見によって正しいと考えられていたものは次々と変わっていきます。
モモコちゃんや羽山さんは「へんな人」でしたが、常識から逸脱した思考を「矯正」せずに、「へんだけど、そんなに気にしなくてもいいじゃん」と自分の信じるものを棄てずに自分にできることをした、立ち向かったから人々の意識を、社会を、「世界の捉え方」を変えることができたのですね。
間違ってたって、「正しく」なくたって、「へん」だっていいのです。「へん」が世界を変えることもあるのだから、他人から「正しさ」で否定されても自分の信じることを棄てなくってもいいんだと背中を押された気持ちになりました。
「間違った社会を変える主人公たち」の物語を、このような新鮮な視点のキャラとストーリーでコミカルに描き出すのが魚介類人猿先生らしいと感じました。
モモコちゃんとお父さんと羽山さんが同じ教室で何気なく過ごせる穏やかな画が、優しく心に染み込み印象的な結末でした。
次回作も楽しみにしています。


「スーパー撲打」「怪奇!墓場で全力野球!!」

魚介類人猿様の「スーパー撲打」「怪奇!墓場で全力野球!!」、大変遅ればせながら拝読しました。
どちらの作品もとても背景や建物の書き込みが細かく、デフォルメされたキャラクターとのバランスが素晴らしいと感じました!また、タイトルロゴの入り方が毎回気持ち良く、今2作は特にかっこ良いですね。
「スーパー撲打」は3ページと、普段よりも短めのお話ですがテンポとギャグが小気味よく、とても面白かったです!
展覧会で観覧料に物怖じして、かと言って節約せずにご飯を食べてしまう気持ちがわかるので、ブッダの言葉が私にも突き刺さりました(笑)
散らかったアパートの一室の薄暗さや、煎餅布団の上で小金を数える姿、白昼の静けさと相まってとても雰囲気のあるお話でした。
ある研究では類人猿はわざと回転することによってめまいを起こし、自身の意識状態を変化させてハイになっている可能性があるそうです。
展覧会で「ウルトラサイケデリックな救済のひととき」は得られませんでしたが、洗濯機で強制回転されることでトランス状態になり、ある意味サイケデリック救済は得られたかもしれないと考えると、カツアゲじみたブッダによって救済されたとも言えるのでしょうか…?
世俗に染まりきってしまうと苦行でしかありませんが、真の救済のひとときは身近なところにもあるのかもしれませんね。
「怪奇!墓場で全力野球!!」は、不良たちがアホっぽくてコナを届けても絶対に足を洗わせてもらえなさそう…と感じました。
ガトリングガンを積んだパトカーといい、恐らく世界の治安が終わりかけているのでしょう。
某妖怪漫画を彷彿とさせる墓場全力野球ですが、妖怪の思考の箍が思ったよりも外れており、理不尽なげーむ!るーる違反!乱闘!という感じが面白かったです。
タツヤの「甲子園行けなかったし…」という発言やフォアグラキャビアに憧れを持つトシオたちの、不良だけど嫌いになれない愛らしさが素敵なバランスだと思いました。
ギャグテイストで進んでいるのにどう足掻いてもそれを上回る超常思考で仲間が死んでいくのが悪夢を見ている時の感覚に近いですね。ガトリングガンパトカーが再登場した時は救いが現れたように感じましたが、正義の名の下に蜂の巣にされてしまったのが無慈悲…!と思いました。「正義執行ッ!!正義執行~~~!!!!!」の勢いが怒涛すぎて好きです。
今作もとても楽しく読ませていただきました。
次回作もすぐに読ませていただきます。
ご自愛ください。

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